生きる力を求めて~中村久子の世界

(1)無限の力を信じて

中村久子女史は、明治30年岐阜県高山市に畳職人の父、釜鳴栄太郎さんと、母あやさんの長女として生まれました。両親の間には長い間子供がありませんでしたので、久子女史誕生の両親の喜びようはたとえようもありませんでした。
 久子女史が2才になった明治31年の冬のことです。久子女史が、「お父ちゃん、お母ちゃんあんよが痛いよ、痛いよ。」とただならぬ声で泣き叫ぶのです。不思議に思った両親が足の甲を見ますとこの部分が黒ずみ凍傷(霜焼け)になっていました。
 この凍傷がもとで突発性脱疸(高熱のため肉が焼け、骨が腐っていく病気)となり、左手首、右手首、左足はひざとかかとの中間、右足はかかとから切断しなければなりませんでした。
 それから久子女史の「自らの無限の力を信じた戦い」が始まりました。7才の時には父と死別し、厳しい生活環境の中で、お母さんの子を思う親心から厳しい厳しい教育が始まります。 10才のころ、手足のない久子女史にお母さんが、着物を与え、「ほどいてみなさい。」と言われました。「どうしてほどくのですか。」と聞きますと「自分で考えてほどくのです。」お母さんは、久子女史に一つのヒントも与えず、「言いつけたことができなければご飯は食べさせません。人間は人の役に立つために生まれてきたのです。できないことはありません。」お母さんは心を鬼にして女史を突き放たれたのではないでしょうか。

(2)挑戦は不可能を可能にする

 不可能と思われたことが、知恵を生み、口で糸を通し、口で字を書き、口ではさみを使い、自らの挑戦が不可能を可能にしたのです。20才で高山を離れ興業の道へと歩まれました。「だるま娘」として名古屋の見せ物小屋に身を売られた久子女史は、裁縫や編み物、短冊や色紙に字を書いて売る芸や、針に糸を通し、その糸を口で結んで見せる見せ物芸人の道でした。それから苦難の中に自活の道を切り拓かれ、昭和12年(当時41才)4月17日東京日比谷公会堂で三重苦の聖人ヘレン・ケラー女史と対面されました。その時の様子を久子女史は次のように語ってみえます。「ケラー女史は私の側に寄り、熱い接吻をされました。そしてそっと両手で私の両肩から下へ撫でて下さる時、袖の中の短い腕先にさわられたとたん、ハッとお顔の動きが変わりました。下半身を撫でて下された時、両足が義足とお分かりになった。再び私を抱えて長い間接吻され、両目から熱い涙を、私は頬を涙にぬらして女史の左肩にうつ伏せてしまいました。」当時の新聞に、ケラー女史は「私より偉大な人!」と久子女史に絶賛を送ったと書かれています。
久子女史は、昭和43年3月19日岐阜県高山市の自宅で、72才で亡くなられました。

(3)久子女史の歩み

 中村久子女史の人生の歩みを改めて大きく分けると次の「生まれて・生きて・生かされて」の3つになります。
①生まれて
 久子女史は1897年(明治30年)11月25日、岐阜県大野郡高山町(現高山市)に畳職任人の釜鳴栄太郎・あやの長女として出生。2才の時左足の甲に凍傷をおこし、それがもとで突発性脱疽(だっそ)になり、3才の時両手足を切断、闘病生活が始まる。7才の時父を亡くし、又10才の時弟と生別、母の再婚等苦労の生活が続いたが、祖母丸野ゆきのやさしい指導と、母あやの厳しいしつけの中で努力と独学を重ねた。結果、無手足の身に文字を書き、縫い物、編み物をこなすことを独特の方法で修得した。
②生きて
 1916年(大正5年)11月16日、女史20才の時高山を離れ、独り立ちの生活を始める。無手足の身に裁縫・編み物・刺繍・口での糸結び・短冊書きを芸として、「だるま娘」の看板で興業界に入る。その後、弟や母との死別、又結婚と出産、夫との死別、再婚、仕事の苦労と幾多の苦難の中に生き抜く。その間、書道家の沖六鳳氏に会い、書の指導を受け、又座古愛子女史に出遭って生きる方向を見つけて努力精進した。1934年(昭和9年)哲学者の伊藤証信・朝子夫婦に見出され、興業界から身を引く動機をつかむ。

③生かされて
1937年(昭和12年)4月17日、女史41才の時、東京日比谷公会堂でヘレン・ケラー女史と出遭う。その時女史の口で作った日本人形を贈った。ケラー女史は、「私より不幸な、そして偉大な人」と久子女史に言葉をおくった。翌42才の時、福永鵞邦氏に出遭い、「歎異抄」にふれる。歎異抄が縁となり念仏者として生きる方向を確立する。
1942年(昭和17年)46才の時、興業界より完全に身を引き求道生活を深める。50才頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の健常者・身障者に大きな生きる力と光を与えた。1950年(昭和25年)54才の時、高山身障者福祉協会が発足、初代会長に就任、65才の時厚生大臣賞を受賞した。69才の時は母を顕彰し、又身障者の生きる力の糧として、高山国分寺境内に悲母観世音銅像を建立した。
1968年(昭和43年)3月19日、高山市天満町の自宅において逝去する。享年72才。


高山市内国分寺にある悲母観世音銅像と三重塔

略歴

明治30年 岐阜県大野郡高山町(現在高山市)に産まれる。

明治32年 凍傷がもとで突発性脱疽をおこす。両手両足切断。

大正 5年 最初の興行界での生活を始める。書家・沖六鳳氏に出会い、書の手解きを受ける。

昭和 4年 座古愛子女史に出会う。

昭和 8年 中村敏雄と結婚。

昭和11年 伊藤証信氏提唱の無我愛運動に感化される。自ら学園、施設の慰問を始める。

昭和12年 岩橋武夫・千葉耕堂氏等によって「ヘレン・ケラー女史に会わす後援会発足」、ヘレンケラー女史と会見。その後伊藤証信夫妻等によって「中村久子後援会」を発足。

昭和13年 書家・福永鵞鳳師より真宗の教化を本格的に受け、「歎異抄」に出会う。後援会を自ら解散。

昭和17年 三重県津市の観音祭の興行を最後に芸人生活に終止符を打つ。

昭和36年 身体障害者模範として、厚生大臣賞を受く。宮中に参内、天皇陛下に激励の言葉を賜る。

昭和40年 NHK”人生読本”<御恩>の放送が機縁となり、母への報恩のために有志とともに高山市内国分寺に「悲母観世音銅像」を建立。久光会発足。

昭和42年 座古愛子女史23回忌法要を神戸・祥福寺と神戸女学院でつとめる。『座古愛子女史の一生』を編纂発行する。

昭和43年 脳溢血で倒れる。高山市天満町の自宅にて逝去。

※以上は「親鸞に出遇った人びと4」p58より引用しました。

著書

『こころの手足』 春秋社、1987年、新版。

『宿命に勝つ』 新踏社、1943年。

『無形の手と足』 永田文晶堂、1949年。

『生きる力を求めて』 永田文晶堂、1951年。

『私の越えてきた道』 地上社、1955年。